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テトリスはどのように生まれたか?

2018.06.14

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正規版だけでパッケージ1億7000万本以上、ダウンロード4億2500万回以上を販売したテトリス。世界的大ヒットのきっかけとなったゲームボーイ版の発売からさかのぼること5年、モスクワにあるコンピューター研究所で、テトリスは人知れず産声を上げた。

 

『テトリス・エフェクト―世界を惑わせたゲーム』より、開発者アレクセイ・パジトノフが初めて着想を得て、オリジナル版テトリスを形にしていく場面を、2018年7月31日まで期間限定で公開します。

 

『テトリス・エフェクト』第4章「最初のブロック」より転載
(転載にあたり、一部割愛し、見出しとイメージを追加しています)

 

 

 

「最初のブロック」

 

ヘンク・ロジャース(*)と同様、アレクセイ・パジトノフは十代のころにコンピューターに触れ、魅了された。しかし2人がプログラマーとしての道を見出すまでには、何年もの年月が必要だった。

 

* ヘンク・ロジャース 日本でゲーム会社を営むアメリカ人(当時)で、日本初のRPG「ザ・ブラックオニキス」を開発。1989年2月、任天堂の密命を受けて、ゲームボーイ版テトリスのためのライセンスを獲得するためにソビエト連邦へと渡る。

 

アレクセイは学校に通い、教育と訓練をたっぷりと受けなければならなかった。ふつうはそれで創造的な精神が失われてしまう。彼が通った厳格な第91モスクワ数学学校は、一流のモスクワ大学数学部(通称Mekh-Mat)への登竜門として知られる学校だった。ところが彼は、卒業後により実践的な道(少なくとも数学の神童にとっては)を選び、モスクワ航空大学に進んで応用数学の修士号取得を目指した。

 

1979年、アレクセイは科学、数学、エンジニアリングの最先端が学べる環境に身を置いていた。モスクワ航空大学はロシアで発展しつつあった航空業界へこれらの研究を応用し、軍拡と宇宙開発競争の双方に貢献していた。とはいえ彼は、当時のモスクワでは希少な存在だったコンピューターに、いぜんとして心を惹かれていた。華やかな航空宇宙分野の魅力ですら、その好奇心を押さえつけることはできなかった。

 

そこで彼は名門のモスクワ航空大学を離れ、より研究志向の強いロシア科学アカデミー(RAS)の本部に籍を移した。RASはモスクワ川を挟んだ東側の町外れにあり、モスクワ航空大学からたった15キロしか離れていなかったが、そこはまるでちがう惑星のようだった。モスクワ航空大学は航空分野に特化した組織だったが、RASは複数の下部組織からなる複合的な機関で、幅広い分野の研究開発を促進することで知られていた。

 

 

◆時代遅れのコンピューター

 

1980年代の初めまでに、RASの傘下には500以上の研究機関が存在していた。アレクセイが所属していたのは、そのうちのほぼ無名のコンピューター研究所、ドラドニーツィン・コンピューティングセンターだった。部屋ほどの大きさがある初期のメインフレームを、他の研究者と共用する生活が何年もつづいたあとで、彼はようやく自分用のエレクトロニカ60(*)を手に入れることができたが、それは時代遅れの代物だった。

 

* エレクトロニカ60 ソ連製デスクトップパソコン。「中身はディジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)製のLSI‐11をコピーしたものだった。1975年であれば、このマシンは時代の最先端を走るものと言えただろう。しかし1980年代の西側の研究施設や大学からすれば、それは恐竜のように古臭いものとなっていた」(『テトリス・エフェクト』第2章より)

 

彼はプログラミングの仕事の合間に、職場を区切るパーティションの上に頭を出して、部屋を見渡すことがあった。安っぽい木の羽目板張りの壁に囲まれ、金属製の机がずらりと並ぶ研究所は、ハイテクとはまったく無縁に見えた。似たようなコンピューター数十台が日中、うなり音を立てて動いており、夜間もアレクセイのような一部の宵っぱりの職員がやってきて研究を行なっていた。彼の典型的な1日は朝の10時か11時に始まり、夜は真夜中までつづくこともよくあった。しかし彼は長時間労働が苦になるどころか、そうしているのに気づきさえしなかった。ずっと冬がつづいているかのようなモスクワの天気と、不安定な経済のあいだで、彼が関心を寄せていたのは仕事だけだった。

 

時代遅れのマシンとはいえ、コンピューターにさわることができ、さらにハードウェアの限界を克服するための学問的自由が得られていたことを、アレクセイは幸運に感じていた。それでも彼は、研究所内のすべてのコンピューターが束になっても、アメリカやヨーロッパにある最新のコンピューター1台にも敵わないかもしれないということを知っていた。しかし10年近く昔のマシンでも、適切に使えば何かを発見できる余地があった。

 

 

◆かすかに伝わってくる外国のビデオゲーム文化

 

アレクセイはビデオゲームを実際に経験したことはほとんどなかったものの、それが普及しつつあり、西側諸国や日本ではひとつの文化を形成しつつあるのをぼんやりと理解していた。ロシアにも、パックマンや「Qバート」といった奇妙なゲームが、検閲の壁をすり抜けてやってきていた。興味深いことに、どちらのゲームも、グリッド状になった空間を移動して遊ぶという内容だった。

 

しかし輸入されたカラフルなパックマンのゲーム機と、RASに設置されていたマシンとのあいだには大きな隔たりがあった。1980年代にコンピューターが普及していた国々で育った人々は、当時のコンピューターといえば大きなブラウン管のモニターを思い出すだろう。ほぼ正方形の画面はユーザーのほうに膨らんでいて、黒い背景のなかでテキスト(プログラムのコードや実行結果など)が弱々しい光を放つ緑や白の文字でぎっしりと表示されていたものである。

 

アレクセイは所属部門によって割り振られ、承認されたプロジェクトに従事していた。その内容は、音声認識と人工知能に関する驚くほど先進的なもので、これらは現在でもコンピューター科学者の頭を悩ませている(iPhoneの音声認識機能Siriに話しかけたことがあれば理解できるだろう)。

 

彼はふと、コンピューター研究所が持つ高いプログラミング能力を、自分が子供のころに愛したゲームやパズルの分野に応用できるのではないかと考えた。まだどう使えばいいのかはわからなかったが、新しいパズルを創造するのにうってつけの道具が突然、目の前に姿を現わしたかのようだった。

 

 

◆アイデアは突然に

 

アレクセイは自分がかつてプラスチックや紙のペントミノ(*)に熱中したのと同じように、パックマンにはまっているプログラマーがいるのを知っていた。そのプログラマーはパックマンのAIについて、一種の異質な集団知能であり、2次元の迷路を進むプレイヤーの動きに反応してついてくると話していた。そして機械に観察され、操られているという感覚から逃れるために、彼はパックマンをリバースエンジニアリングして、ほとんど同じ内容のゲームを一から作ってみることで、その背後にあるプログラミングの考え方を理解しようとしていた。

 

*ペントミノ 5つの立方体がつながったブロックを使って遊ぶパズルゲーム。

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「いくつかのピースを組み合わせて、四角形などの形状をした容器にぴたりと入るようにするにはどうしたらいいかを考えるわけだが、その際にピースとピースのあいだに隙間ができないようにしなくてはならない。……アレクセイはペントミノで使用されるピースの形と、それによって生まれる世界に魅了された」(『テトリス・エフェクト』第2章より)

 

コンピューターネットワークやUSB、オンラインダウンロードが登場する以前、ソフトウェアはこのようにしてシェアされ、コピーされていた。面白そうなコンピュータープログラムがあったとして、そのコピーが入手できなかったり、自分のマシンでは動かなかったりした場合、それと同じ動きをするプログラムを自分で書くしかない

 

自分のエレクトロニカ60や、RASにある他のマシン上でゲームを再現するというアイデアがすっかり気に入ったアレクセイは、モスクワで最も有名な玩具店「チルドレンズ・ワールド」に向かった。インスピレーションが降ってきたのは、そのだだっ広い通路に立っていたときだった。何十年にもわたってモスクワのランドマーク的存在だったこの店は、息をのむほどみごとな石造りのアーチを持つ壮麗な建物の中にあった(皮肉なことに、その場所はKGB本部から目と鼻の先だった)。そこでロシアの子供たちに、最新の玩具やエンターテインメントを提供していたのである。

 

アレクセイが店内の棚を眺めていると、見慣れたものが目に留まった――プラスチック製のシンプルなペントミノである。気づいたときには、それはアレクセイの手に収まり、RASのデスクに広げられていた。そして何時間もピースを合わせながら、この単純な幾何学デザインと、プログラミング可能で結果の予測可能なコンピュータープラットフォームとのあいだを、どうやったら橋渡しできるだろうかと考えた。パックマンなどのアーケードゲームのように、(当時としては)ハイエンドのグラフィック機能を持つコンピューターがなくても、ペントミノに含まれる概念を机に広げられた図形からコンピューターのスクリーンへ変換する方法があるにちがいない。

 

 

◆テトリスの前身「遺伝子工学」

 

彼が最初に作り上げたプログラムは、ごく基礎的な内容だったが、それでものちにテトリスとなるものの基本的なアイデアが形になっていた。問題は、外国のアマチュア・ゲームプログラマーが使っているマシンと比べても、彼が使えるハードは10年近く時代遅れの代物であるという点だった。ペントミノを画面上で再現したければ、ある程度のグラフィック効果が欠かせないが、エレクトロニカ60は原始的なコンピューターグラフィックスでさえも描画できなかった。

 

彼が最初に考えた解決策は、「使える筆だけを使って絵を描く」だった。つまりキーボードに並んだ英数字だけで図形を表現しようとしたのである。彼は約物(多くはカッコ )を組み合わせ、複数の行にわたって慎重に並べることで、ディスプレイ上に図形を描いた。それは美しいとは言えなかったが、それでも上手くいった。

 

6日間で作成されたこの初期バージョンには、「遺伝子工学」という野心的な名前がつけられ、ペントミノでは5つ使われていたブロックが、より扱いやすいように4つに切り詰められた。それにより作成可能な形状は7種類となり、アレクセイはそれを「テトリミノ」と名づけた。彼の最初のバージョンは、ペントミノを忠実に再現したものだった。プレイヤーはたんに、画面上でテトリミノを動かして、一定の形になるように組み合わせるのである。空間操作型のパズルゲームにおける初歩的な取り組みとしては、画期的なものと言えるだろう。ところがアレクセイ自身、何回かプレイしただけで、たちまちその内容に飽きてしまった。何か別の要素が必要だった。

 

アレクセイのようなプロのプログラマーにとって、ゲームのメカニズムを作るというのは簡単な話だった。しかし図形を落として四角形を作るだけの作業には、優れたゲームに付き物の中毒性という要素が欠けていた。この初期のバージョンでは、たんに何個のピースを四角形の中に入れられるかを判定するだけで、最適な解を導き出すまでには数分しかかからなかった。いったん遊んでしまえば、もう一度遊ぼうという気にはならなかった。

 

 

◆今ではあたりまえの要素がなかった

 

アレクセイはその後、数週間かけてプログラミングに取り組み、自分が作り出したゲームから余分なところをそぎ落として、最も本質的な部分を残していった。そうした徹底的なミニマリズムの追及から、画期的なアイデアが生まれた――コンピューターの画面全体を使う必要がないとしたら、どうなるだろうか? モニターが正方形だからといって、そこに表示されるものも正方形である必要はないはずだ。

 

この小さなイノベーションが、ゲームの印象を一変させた。アレクセイはピースを構成する正方形を5つから4つに減らしたのと同じように、プレイエリアを画面全体からせまい通路のような形へとせばめたのである。そこに画面の上からピースが出てきて、下へと落ちていく。そうすることで、早くて正確な判断を下せるよう集中する必要ができた。しかしまだ問題が残されていた。いったん横の列がすべて埋まると、その下にある空間にはピースを入れることができなくなってしまうのである。

 

ゲームはふたたび簡単に終わってしまい、何回も遊ぼうという気にはならなかった。アレクセイは画面に向かい、改良したゲームにできたムダな空間を苛立たしげに見つめた。そのときひらめいた画期的な解決策は、たったひとつの要素を追加するだけの内容だった。しかしそれはその後30年以上にわたり、数百にもおよぶテトリスの続編や変種、コピー作品を通じて変わらず引き継がれるものになった。

 

横の列がテトリミノで埋めつくされ、右から左まで隙間がなくなると、その列は単純に消えてしまうことにしたのだ。そうすれば、その下にある空間にピースをはめこむための道が開ける。そしてゲームの目標は、画面に合わせてピースをはめこむだけでなく、できるだけ多くの列を消すことになった。

 

かつてアレクセイは、RASのコンピューター研究所で学術研究や新しいコンピューターハードウェアのテストに何時間も没頭し、深夜になって終電を逃しそうになるほど働いていた。しかしいまや彼は、自分が創造したゲームを作り、改良し、それで遊ぶことに同じぐらいの長い時間を割いていた。昼間ですら、ソフトウェアのデバッグを行なうふりをしながら、自分のゲームで繰り返し遊んでいることが何度もあった。キーボードから指が離せないほど、夢中になってしまったのだ。

 

 

◆職員たちが列をなす

 

ドラドニーツィン・コンピューティングセンターでは、アレクセイがゲームを開発していることが徐々に知れ渡るようになった。研究者や学生が画面のまわりに集まって、他人がプレイするのを見たり、みずからプレイしたりしていた。みな自分の番がまわってくるのを辛抱強く待ち、なかには自分の仕事が終わっていないのにゲームをしに来る人までいた。自作のゲーム(なかにはアレクセイのプロトタイプと同じくらい魅力的なものもあっただろう)がその製作者以外によってプレイされることがほとんどなかったロシアにおいて、これは前代未聞の現象だった。

 

少数の熱狂的なパックマン・マニアは別にして、ロシアではアメリカ製や日本製のゲームに接する機会は限られていたため、テトリスに匹敵するものはほとんどなかった。おそらく当時としては、手に入るなかでは最高の存在だったというべきだろう。というのも、このバージョン(「テトリス」と呼ぶことのできる要素を最低限備えた最初のバージョン)には、今日の私たちが「テトリス」というゲームについて思い浮かべるさまざまな要素が欠けていたからである。

 

緑と黒の画面に映し出された、アレクセイの原始的なテトリスには、音楽はおろか効果音もなかった。まるで真空のなかで遊んでいるかのように、ただピースが静かに落ちてきていたのである。当初はスコアも存在しなかった(ただ水平に空間を埋めると列が消えるというアイデアは、スコアをカウントするうえできわめて都合がよかった)。レベルも分かれておらず、ましてあるレベルをクリアして別のレベルに上がるなどということはなかった。

 

またこの段階では、1980年代のバージョンをプレイしていた人々が(軽快なロシア民謡の曲とともに)覚えているような、ロシアを代表する建築物のグラフィックスも表示されてはいなかった。こうした飾りつけは、タイトルに使われていた、Rが反転したたようなキリル文字(Я)と同様にかなりあとになってから追加されたものであり、「鉄のカーテンの向こう側からやってきた、エキゾチックなコンピューターテクノロジー」という雰囲気を求める、西側の消費者に向けて用意された要素なのである。アレクセイと彼の同僚たちにとって、それは最初からロシアのゲームだった。ロシアのプログラマーが、ロシア製のコンピューターで開発し、プレイしているものであり、いまのところロシアのコンピューター研究所のなかで独占されている。それを思い出すために、クレムリンの絵は必要なかった。

 

同僚たちからの支持は得られたものの、テトリスは無数にあるコンピューター関連プロジェクトのひとつにすぎず、一部の専門家が作って楽しんでいるものと受け取られていた。数日、あるいは数週間は楽しめるものの、そのうち忘れ去られ、別の新しい何かに関心が移るというわけだ。けっきょくのところ、当時のロシアにはゲームをシェアするための商用オンラインネットワークが存在しておらず、モスクワであっても、パーソナルコンピューターが使える人はほとんどいなかったのである。

 

 

◆最初の障壁

 

家庭や職場でパソコンに触れることのできた、少数の幸運なモスクワ市民が、仮になんらかの理由でテトリスのコピーを入手できたとしても、それで遊ぶことはできなかっただろう。エレクトロニカ60はRASのなかでも珍しいマシンであり、テトリスのオリジナル版である27 キロバイトのプログラムは、このマシン上でのみ動くように書かれていたからだ。そのころロシアと西側諸国の双方で、IBMのPCがデファクトスタンダードになりつつあったが、エレクトロニカ60にはそれとの互換性がなかった。PCが採用していたMS-DOSは、今日のウィンドウズにまで至る込み入った進化の出発点となったオペレーティングシステムである。当初アレクセイが作成したプログラムは、ロシアのプログラマーやテクノロジー愛好家の多くが使っていたコンピューター上では実行することすらできなかった。

 

にもかかわらず、テトリスに関するうわさは、ドラドニーツィン・コンピューティングセンターのなかでウイルスのように広がっていった。そして何週ものあいだ、研究者の興味を惹きつけ、彼らの管理者を悩ませたのである。しかしRASの本部内で起きた、この最初の流行は、エレクトロニカ60にアクセスできる人々が飽きてしまえば終わってしまう運命にあった。この閉じた生態系の外に飛び出すには、テトリスにはウイルスと同じものが必要だった――「キャリア(運び屋)」である。
テトリス・エフェクト

ゲームボーイ版テトリスの発売までを追ったノンフィクション

『テトリス・エフェクト』
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