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『反共感論』訳者あとがきを公開

2018.02.23

反共感論反共感論』訳者あとがき

 

 

 

 

 

 

 

『反共感論』はAgainst Empathy(Harper Collins, 2016)の全訳である。著者のポール・ブルームはイェール大学に所属する心理学者で、既存の邦訳には、『赤ちゃんはどこまで人間なのか―心の理解の起源』(ランダムハウス講談社)、『喜びはどれほど深い?―心の根源にあるもの』(インターシフト)、および『ジャスト・ベイビー―赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源』(NTT出版)がある。発達心理学に関する業績が多いが、本書は共感という心の機能を対象にしており、子どもの心や認知の発達を直接的なテーマにしているわけではない。

 

まずトリガー警告を発しておこう。タイトルが示すように、また「はじめに」の冒頭で「私は共感に反対する。本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ」とさっそく述べられているように、本書は、共感に反対することを目的としている。一般にポジティブな能力としてとらえられている共感に反対する議論が繰り広げられる本書の評価は、真っ二つに割れざるを得ないだろう。事実、米アマゾンのユーザーコメントでは、一つ星から五つ星まで評価がかなり均等に分布している。情緒的な側面が重視される日本では、この分布がさらに評価が低いほうにずれても不思議はないかもしれない。それどころか、常識的な見方に故意に反対するために、奇を衒てらった主張を繰り返すトンデモ本だとさえ見なされかねない。しかし、その見方は正しくない。以下にそれについて説明しておく。

 

「はじめに」で、「なかには、道徳性(morality)、親切(kindness)、思いやり(compassion)などの類義語として、あらゆる善きことに言及して〈共感(empathy)〉という語を用いる人がいる」と述べられているように、「共感」という言葉はさまざまな意味で用いられている。したがって、どのような意味で著者が「共感」という用語を使い、どの共感の側面を問題視しているのかを明確にしておくことは非常に重要である。さもなければ、著者が共感のすべての側面に反対しているように見えてしまうだろう。

 

著者はまず、「共感」を「情動的共感」と「認知的共感」に分ける。情動的共感とは、端的に言えば「他者が感じていることを自分でも感じること」をいう。これは感情のミラーリングを意味し、たとえば「不安を感じている人をなだめる」などといったケースで行使される、思いやりや配慮のような他者の感情のミラーリングではない能力とはまったく異なる点に留意しておく必要がある。一般的に言えば、情動的共感を覚え、相手の不安をミラーリングした結果、自分自身でも不安を感じてしまえば、相手をなだめるどころではなくなってしまうだろう。医療などでは、医師が患者の不安や怖れに情動的に共感することは一つの問題になり得、それを「情動の底なし沼」と呼ぶ精神科医もいる。対する「認知的共感」は、著者の言葉を借りれば、「他者の心のなかで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる」という意味での共感であり、要するに他者の立場に身を置いて、他者の視点でものごとを考えることをいう。したがって大雑把に言えば、情動的共感が情動的、感情的な働きであるのに対し、哲学者や心理学者が「心の理論」とも呼ぶ認知的共感は、認知的、理性的な働きであるとも言えよう。また、それらを処理する脳領域も異なる。

 

著者が特に問題にしているのは、これらのうちの情動的共感のほうであり、認知的共感に関しては、善き行為にも悪しき行為にも関与し得る中立的なツールと見なしている。さらに言えば情動的共感にしても、それがとりわけ問題になるのは、道徳的な問題や公共政策に適用された場合においてとされている。では、なぜそれらに情動的共感が適用されると不都合が生じるのか? 著者の主張をかいつまんで言えば、次のようなものになる。情動的共感は射程が短く、見知らぬ人々より身内や知り合い、あるいは身元がわからない多数の匿名の被害者より、身元が明確にわかる少数の被害者を優先する郷党的な先入観が、無意識のうちに反映されてしまう。著者はこれを数的感覚のなさ、あるいはスポットライト効果と呼ぶ。だから、井戸にはまった、ただ一人の顔がはっきりした少女には、メディアのスポットライトが当たり全米が注目するのに、アフリカで飢えている大勢の匿名の子どもたちにはほとんど誰も目もくれないといういびつな状況が生まれるのである。道徳的な問題や、公共政策に関して、その種の特殊な利害や関心が絡むのは不適切であることは言うまでもないだろう。

 

では、なぜ情動的共感は郷党的な偏見を呼び込みやすいのだろうか? この点に関しては、本書ではあまり明確になっていないように思われるが、一点指摘しておくと、本書の著者ポール・ブルームも推薦文を寄せる、心理学者リサ・フェルドマン・バレットの最新刊『How Emotion Are Made: The Secret Life of the Brain』(Houghton Mifflin Harcourt, 2017)をひもとくと、一つのヒントを得ることができる。最新の脳科学、認知心理学の成果を駆使しながら精緻な論理が展開されるこの本の内容を、ここで詳細に説明することはもとより不可能だが、構築主義的な情動理論を提起するバレットの主張によれば、情動は先天的なものというより、文化や環境の影響を受けつつ脳の働きを通してダイナミックに構築されるものである。つまり情動の形成には、自分がたまたま生まれてきた文化や環境の影響が不可避のものとして作用する。ならば情動は、必然的に普遍的ではなく郷党的なものにならざるを得ないだろう。ちなみにこのバレットの著書は、現在訳者が鋭意翻訳中であり、刊行の暁にはぜひ参照されたい。

 
『反共感論』を読むにあたっては、誤解のないよう以上の点に留意しておく必要があるが、それでも本書には物議を醸してもさほどおかしくはない内容が含まれる点に変わりはない。実のところ訳者自身でさえ、著者の見解を一〇〇パーセント無条件に受け入れているわけではない。では、なぜそのような本を取り上げたかについて次に説明しておこう。最近、日本に限らず世界中で、世の中の風潮が、左右両極端にみごとに分裂していることはよく指摘される。その原因を分析する本もよく見かけ、拙訳のジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか―対立を超えるための道徳心理学』(紀伊國屋書店)も、そのうちの一冊だと言えよう。訳者はヘビーユーザーではないがツイッターを利用しており、ツイートにもその傾向がはっきりと見て取れる。というより、むしろツイッターなどのSNSメディアはその傾向を助長しているようにも思える。後述するように、とりわけツイッターは、ブルームが攻撃の対象としている情動的共感が、強力に作用する場所と化しているように思われる。それを示す例はいくつもあげられるが、ここでは典型例を一つだけ取り上げておこう。

 

かなり前のことなので詳細は失念したが、某右系新聞に投稿された、テロ等準備罪(いわゆる共謀罪)に賛成する一高校生の投書をやり玉にあげるツイートが拡散しているのを見たことがある。そしてこのツイートに対し、おびただしい数の「リツイート」がなされ、「いいね」がクリックされていた(なお、リツイートのすべてがツイートに賛成してのものとは言えないのは確かだが、大量に拡散しているツイートのリツイートは基本的に賛成してのものと見るべきだろう)。無用な誤解を招かないよう予め述べておくと、訳者は、ポピュラーサイエンス書の訳者あとがきで政治的見解を開帳するつもりはまったくなく、テロ等準備罪に関して何らかの発言をするつもりはまったくない。そうではなく、ここで言いたいのは、本来(ポジティブな意味での)共感力が高く、理性的にものごとを考えることを心掛けているとされているはずのリベラルでさえ、ネガティブな情動的共感の影響を非常に強く受けていることがそれによって分かるという点である。つまりこういうことだ。情動的共感ではなく認知的共感を行使していたら、この高校生をやり玉にあげるのではなく、なぜ彼はテロ等準備罪をありがたいものと見なしているのかを、本人の立場に立って考えようとしたはずであろう。そのような態度をとっていれば、現在の高校生なら、生まれ落ちた途端に同時多発テロが起こり、その後アフガン戦争、イラク戦争が発生し、それと同時にロンドンやマドリードなど世界各地でテロ事件が頻発し、さらにはイスラム国が勃興し、最近では日本に近い北朝鮮がミサイル実験で脅威を与えるという暗あん澹たんたる世界を横目に、これまで生きてきたのだということが理解できるはずだ。かくも危険に満ちた世界を見て生きてきた高校生の目からすれば、とりわけテロに対する安全保障が重要に見えるのはごく自然なことである。

 

その点を理解していれば、この高校生をつるし上げるのではなく、彼の意見を若い世代が抱く代表的な見解の一つとしてとらえ、そしてとりわけ彼ら若い世代が今後の社会を担っていくことを考えれば、その彼らにも十分に納得できるような形で、テロ等準備罪が問題なら、テロ対策としてその代わりに何をすればよいのか、あるいはそもそも何もしなくてもよいのかを理性を行使して徹底的に議論すべきことに気づけたはずだ。それにもかかわらず、このツイートをした人とそれに同意した人々の多くは、自分の信条とは明らかに異なる高校生の投書を読んで、認知的共感力を行使するのではなく、仲間内でしか通用しない郷党的な情動的共感力に駆り立てられたのだと、少なくとも訳者には思えた。そのツイートを目にしたとき、高校生の見解に対してより、彼の視点を一切無視して一斉に叩きまくる人々に対して暗澹たる気分になったほどだった。バレットが論じているように、情動は文化や環境の影響を受ける。この高校生が、彼が生きてきた世界の影響を受けているのはもちろんのこと、それをやり玉にあげた人や、そのツイートに同意した人々も、自分たちが生きてきた世界の影響を受けている。そして情動は、私たちの思考や行動に深甚な影響を及ぼす。折に触れそのバイアスが、後述するようにメディアによって増幅されて噴出するのである。いずれにせよ、偏向しているのは自分の信条を共有しない人たちだけだという見方がまったくの誤りであることは、バレットの情動理論を引き合いに出さずとも、脳科学、進化生物学、認知心理学、行動経済学などの最新の知見からも明らかである。それを認識したうえで、ブルームが主張する理性の力を行使して、その陥かん穽せいを免れるべきであろう。

 
その種のバイアスをさらに強化しているのが、ツイッターを始めとするソーシャルメディアなのではないだろうか。メディアが、伝達する内容のみにおいてばかりでなく、メディアの形態そのものが持つ作用によって無意識裏に人の心に影響を及ぼし得ることは、マーシャル・マクルーハンが活躍していた頃から言われていることであり、特に目新しいものではない。しかし、昨今ではその傾向がますます強まっているように思われる。ツイッターは、「一四〇文字の字数制限によって、自分の主張の根拠を述べない格好の言い訳を与えてくれる」「タイムラインに短期間表示されるだけである」「チェリーピッキングした根拠薄弱なツイートをリツイートによって瞬時に発信することができる」などといった刹那的、断片的な特質を持つにもかかわらず、リツイートの連鎖を通じて短期間で驚くほど広範に拡散する浸透力をも合わせ持つ。著者も訳者も利用しているツイッターに全面攻撃を仕掛ける意図は毛頭ないが、こうして見ると、ツイッターはまさに情動の発露を劇的に促す格好のメディアだと言えるだろう。だから、今さらオンライン社会をつぶすことなど不可能である以上、それを利用するユーザーの側が、ソーシャルメディアが持つ特質に十全に気づく必要がある。

 

これは訳者の勝手な妄想ではない。最近読んだ本から二点ほど引用しよう。認知神経科学者のターリ・シャーロットは、最新刊『The Influential Mind』(Henry Holt and Company, 2017)で次のように述べている。

 

 私はつねに、〈ツイッターはインターネットの扁桃体〔情動反応に関与する脳の組織〕〉であると考えてきた。メッセージのスピード、短さ、拡散力など、その役割を果たすには格好の要素を備えているからだ。ツイッターが持つこれら直感的な側面は、必要なフィルターをバイパスして、情動システムを繰り返し呼び出す。

 

「必要なフィルター」とは、ブルームが本書の最終章で擁護する理性の力であることは言うまでもない。『孤独な群衆』(みすず書房)で知られる社会学者デイヴィッド・リースマンのかつての教え子で、テクノロジーが情動や心理、あるいは人間関係に及ぼす影響を研究しているシェリー・タークルは、最新刊『一緒にいてもスマホ―SNSとFTF』(青土社)で、ツイッターに限定しているわけではないが、オンラインメディアに関して次のようにもの申している。

 

 もっと何かを感じようと、もっと自分を感じようとして、私たちはオンライン接続しようとする。しかしその実体は、性急にオンライン接続しようとすることで、孤独から逃げているのだ。こうして一人で自己に集中する能力が退化していく。一人でいるときに自己のアイデンティティに確信を持てなければ、自己の感覚を維持するために他人の力をあてにせざるを得ない。すると今度は、他者を他者として経験することができなくなる。自分に必要なものを、他者からこま切れに受け取ることしかできなくなるのだ。これは脆弱な自己を支えるために他者を交換可能な部品として扱っているに等しい。(拙訳による)

 

まさに自己の拠って立つべきアイデンティティまでもが、今や一介のメディアによって強力な影響を受けているのである。そしてそこでは、他者(とりわけ自分と見解を共有しない他者)はくだんの高校生のように、全的人間としてではなく、こま切れに扱われる。ツイッターは、少しでも利用していればわかるように、その種の他者の扱いにあふれている。おそらくこの高校生と面と向かっていたなら、そのツイートをした人や、情動的共感に駆り立てられてそれをリツイートした人々の態度は、変わっていたのではないかと個人的には思う。

 

このような現状に鑑みると、『反共感論』は、その要因の一つを明らかにし、ならびにそれに対する一つの解決方法(第6章で取り上げられる理性的推論)を提起する書として非常に重要であるという印象を受けた。それゆえ、たとえある程度の物議を醸したとしても、ターリ・シャーロットやシェリー・タークルが指摘する問題を抱えるオンライン時代に突入した今こそ読まれるべきであると考え、本書を取り上げたのである。読者がいかなる印象を受けようと、本書は必ずや、自分の思考様式を見直す格好の機会を与えてくれるだろう。その際、著者の具体的な見解に賛成するにせよ反対するにせよ、情動的に反応するのではなく、それについて理性的に考察し皆で議論することが肝要である。まさにそれが本書で著者が説くところなのだから。

 

 

二〇一七年一二月  高橋 洋