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テトリス・エフェクト(テトリス効果)とは何か?

2018.06.07

TETRIS EFFECT(テトリス効果)という言葉を生んだ、東京での引きこもり生活

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「テトリスをやりすぎて、ゲームをやめてもブロックが視界に見えるようになった」―これがテトリス効果です。この言葉は医学論文でも使われるほど認知されていますが、作り出したのはひとりの雑誌記者。彼が東京に滞在していた時の経験がきっかけとなりました。その言葉が生み出されるまでの裏話を、書籍『テトリス・エフェクト』のコラムから公開します。

 

書籍『テトリス・エフェクト』収録コラム「BONUS LEVEL 1」より転載
(ウェブ転載にあたって、一部割愛し、見出しを追加しています)

 

 

さまざまな色と形の幾何学模様がどこからともなく現れ、流星のようにからっぽの空を明るく照らす。そして次の瞬間には天へと戻っていく。

 

しかしこの現象は終わらない。新たな形がそのパターンと順番を変えながら次々にめまぐるしく現れるので、ひとつひとつにはしっかりと集中することができない。ある者はそれを、砂漠の蜃気楼であったり、過ぎ去りし日のあいまいな記憶のなかで見た何かの模様のように感じられ、またある者には、閉じたまぶたの裏で踊る花火の残像であるかのように感じられる。

 

これが、「テトリス・エフェクト(テトリス効果)」である。医学文献と大衆向けの読み物の両方に登場するこの用語は、パターン化された行為を繰り返し行なうことが最後には個人の思考や空想をつくり出すようになることをさす。

 

開発者本人さえ中毒に

 

臨床心理学者のウラジーミル・ポヒルコは、科学界でテトリスの中毒性にはじめて気づいた人物である。彼はモスクワ医療センターの同僚たちから、友人のアレクセイ・パジトノフ〔テトリスの生みの親〕からもらったゲームのコピーを隠さなければならなかった。彼ですら、長時間遊んだプレイヤーたちの心が文字どおり変わってしまうほど、テトリスに中毒性があることは予想できなかった。

 

テトリスは当初、モスクワ周辺の地域で大流行し、「バイラル〔ウイルスのような伝染性のある〕・コンテンツ」の初期の例と言える存在だった。それが中毒性を持つことは最初から明らかだった。なにしろパジトノフがオリジナル版のテトリスを洗練させるのに何日も何週間も費やしたと言われているのは、単純に彼がゲームをやめられなかったからである。

 

そのような中毒症状が起きるのは、テトリスが手続記憶(繰り返し行なわれる行動を導く記憶)と空間記憶(2Dおよび3Dの物体やそれらの相互関係の理解を扱う記憶)の両方に刻みこまれるからだ。

 

TETRIS EFFECTは、一雑誌記者がつくった言葉

 

テトリス・エフェクトは科学的に認められているものの、その名前が最初に使われたのは学術誌ではなく、雑誌ワイアードだった。ワイアードは過去20年間、他のどんな雑誌よりもいちばん、科学とテクノロジーが一般に受け入れられるように尽くしてきた雑誌である。

 

多くの人には、週末をムダにしてしまった、という経験があるだろう。酒やドラッグにおぼれる人もいれば、物思いにふけっているあいだに時が過ぎていた、という人もいる。1990年、作家のジェフリー・ゴールドスミスはテトリスに6週間も費やした。そしてその過程で、ある種のテクノロジーが強い薬物的効果を持つ可能性があるのを理解するに至った。鮮烈な体験だったため、彼はそれに「テトリス・エフェクト」という名をつけた。シンプルな名前だったことで多くの人の記憶に残り、現在ではその意味が拡張されて、さまざまな心理現象をさす用語になっている。

 

日本へと導かれる

 

ゴールドスミスはテトリス中毒になる直前、さまざまなアートと文化を探究する「ジェネレーションX」の1人だった。23歳のときにニューヨークからメキシコに移り住んだのだが、それは多くの人々が喧騒に満ちた都会を離れたのと同じ理由からだった。そうして、小説を書くための孤独とインスピレーションを手に入れようとしたのである。

 

しかしメキシコで見つけたのは、別のものだった。彼の仮住まいがあった、グアナファトの中心地近くの小さな村は、毎年行なわれる「セルバンティーノ国際フェスティバル」という、演劇やダンス、写真などさまざまなアートが一堂に会する祭典の開催地になっていた。そこでゴールドスミスは、中嶋夏という日本人の舞踏家による演目を目にする。それは幽霊のような白いメーキャップや、細部まで行き届いた緩慢な動きが印象的なパフォーマンスだった。たったそれだけの経験で、ゴールドスミスは日本に移って舞踏文化をもっと深く学ぶことにし、最後にはその宣伝の仕事をするようになった。

 

1990年、ゴールドスミスは日本からニューヨークへと出かけた。滞在中、にぎやかな街のなかでひとつの見慣れないものが彼の目をとらえた。トライベッカ地区の脇道に停まっていたクルマの中の男が、自分が見られているとも知らず、握りしめた灰色の物体に夢中になっていたのである。近づいてのぞきこんでみると、男は当時まだ珍しかった任天堂の携帯型ゲーム機ゲームボーイを両手でつかんで、ゲームに熱中していた。そのゲームがテトリスだったのである。

 

その光景はゴールドスミスの頭から離れなかった。そして一度気づいてしまうと、あちこちでこのゲームが目に入るようになり、そのたびに人々は手元のゲーム端末をまるでゾンビのように見つめていたのである。彼はそれが面白い文化現象だとは思ったが、それ以上でも以下でもないと考え、頭の片隅に追いやった。

 

引きこもり生活

 

ゴールドスミスが日本へ戻ることにしたとき、田舎暮らしをしながら働く予定を立てていたが、その前に東京へ行って、ドイツ人の友人と1週間過ごすことにした。友人が仕事に出掛けているあいだ時間をつぶそうと、ニューヨーク滞在中にあちこちでプレイされているのを見かけたゲームボーイの日本版を、なんの気なしに手に取った。そしてその当時、ゲームボーイはテトリスのカートリッジとセットで販売されていた。

 

ゴールドスミスはゲームボーイでテトリスを起動した瞬間、考えが一変した。1週間だったはずの滞在は1か月に延びた。彼はゲームに取り憑かれていた。時折、食料や乾電池を求めて外に出る以外は、設備の整った小ぢんまりとしたゲストルームにこもりきりになった。ゲームの影響を受けているという自覚は十分あった。コンビニに着くと、彼は軽食やその他の細々としたものを選び、カウンターにカゴを置いてからレジ打ちが終わる瞬間に何食わぬ顔で単三電池を投げ入れていた。コンビニに来たほんとうの理由は、最初からゲームボーイに補充するための乾電池を買うことだったのに。

 

ゴールドスミスは、自分がこの経験から何を得ようとしているのかもわからなければ、「ハイスコアを○○点以上にしよう」といった具体的な目標も考えてはいなかった。しかし来る日も来る日もテトリスで遊び、どんどんレベルが進んでいった。そしてたまに東京を散策すると、目に入ったクルマや人間、ビルなどを心の中で組み合わせようとしている自分に気づくのだった。テトリスは中毒性を持っていただけでなく、現実に対するゴールドスミスの認識をも変えていたのである。その効果は、現実と空想の境界をあいまいにするほど強力ではなかったものの、彼の知覚を変えていた。その変化の様子は、科学者らによって理解されはじめたばかりだった。そしてゴールドスミス以外にも、この現象を経験した人々がいて、それから数年のあいだに、いくつかの研究グループがそれぞれ独自に、テトリスが認知研究の完璧なツールであることを見出していく。

 

突然の終焉

 

抑えることのできないテトリス中毒が6週間つづいたあと、ゴールドスミスはまったく予想外の事態に直面した。信じられないほどの高いスコアを記録したとき(その域に達するころには、あまりにピースが速く落ちてくるので、何時間もかけてゲームの腕前を鍛えたプレイヤーでないと反応できないほどだった)、ゲームが終了してしまったのである。たちの悪いテトリミノの前に惨敗したわけではない。そうではなく、ゲームボーイの小さなモノクロ画面はゴールドスミスが勝利したことを告げた。彼はテトリスを倒したのだ。ゲームは彼の偉業を、ロシアのダンサーたちが民族舞踊を踊る短いアニメーションで祝福し、つづいてスペースシャトル(NASAのロゴがついていないだけで、奇妙なくらいアメリカのスペースシャトルに似ていた)が発射台から宇宙に向けて打ち上げられるシーンを流した。

 

しかし画面に現れたものは、それっきりだった。テトリスは終わったのだ。ゴールドスミスはすっかり気が抜けてしまった。信じられなかったが、もはやゲームには何もやるべきことが残っていなかった。彼は中毒症状に苦しんだが、それに陥っているあいだは、ゲームは学習曲線を登るという恍惚感をもたらしてくれていた。しかしその学習曲線を登りきってしまうと、ゲームをプレイする必要性がまったくなくなってしまったのである。彼はゲームボーイを脇に置いた。その瞬間、ゴールドスミスにかかっていた魔法が解けた。

 

ビデオゲーム中毒に名前を付けなくては

 

ただテトリス中毒は終わったものの、その経験から生まれた疑問が彼の心をつかんで放さなかった。なぜこんな単純なビデオゲームにはまってしまったのか? どういう頭脳の持ち主なら、こんな単純そうで奥の深いゲームを思いつけるのだろうか? テトリスは他の人にはどんな影響を与えているのか? テトリス中毒などというものがほんとうに存在するのか、それとも自分は特殊なのか?

 

のちに彼は、「テトリス・エフェクト」ほど広くは使われていないものの、いまでも使われる表現を創作して次のように記した。「テトリスはフアーマトロニック(電子ドラッグ)ではないのだろうか」

 

ゴールドスミスは最終的にアメリカに戻り、テトリスについてさらに深く考えるようになった。そしてテトリス漬けの6週間を過ごしてからおよそ2年後、彼はフリーのジャーナリストとして身を立て、キオスクに並ぶような雑誌のために記事を書くようになっていた。そして当時最も先進的だった雑誌の編集者と次の記事について意見を交換し、彼から仕事の依頼を受けた。その雑誌こそワイアードである。この月刊誌は、ポップカルチャー、科学、そしてテクノロジーをテーマとしていて、1990年代初頭では、拡大しつつあるテクノロジーと文化との融合について読むことのできる唯一の雑誌だった。ワイアードは一般大衆向けに書かれていたが、記事のレベルにはいっさい妥協がなかった。

 

ワイアードに書いたゴールドスミスの記事は、非常にわかりやすい書き出しで始まり、自分の個人的な経験を率直に取り上げたものだった。しかし、当初はテトリスの生みの親であるアレクセイ・パジトノフのインタビュー記事になる予定だった。

 

ところが簡単に思えたインタビュー記事は、不首尾に終わる。そのころパジトノフはアメリカに移り住んでおり、ゴールドスミスは数時間の電話インタビューを何度か行ない、テトリスの誕生秘話を聞き出そうとした。しかしインタビューが終わってみると、パジトノフはまったく感じの良い人物だったものの、話自体はさして面白くなかったのである。

 

ワイアードで長年編集長を務めてきたケヴィン・ケリーの協力を得て、ゴールドスミスはこのテーマにテコ入れすることにした。2人は、お蔵入りしていたかもしれないポップカルチャーのインタビューがどうにか日の目を見る方法がないかと頭をひねった。そしてケリーは、パジトノフに焦点を当てるのではなく、むしろゴールドスミスの個人的な体験を軸に、テトリス中毒の本質に迫る思索ベースの記事を書くことを提案したのだ。

 

その提案に乗ったゴールドスミスは、パジトノフの旧友であるポヒルコにコンタクトを取った。彼も勤めていたモスクワ医療センターで、テトリスには同じくらい煩わされた経験を持っていた。当時ポヒルコはサンフランシスコに移住し、アニマテックというスタートアップ企業で短期間パジトノフとともに働いていた。またゴールドスミスは、カリフォルニア大学アーバイン校のリチャード・ハイアー博士にも電話でインタビューを行なった。博士は同じころ、脳のエネルギー消費と意思決定を変化させるツールとしてテトリスを利用する、認知研究プロジェクトを進めていたのである。

 

ゴールドスミスによる取材の成果は、これまでに主要なメディアで発表されたビデオゲームに関する記事のなかで、トップクラスの引用数を誇っている。この、ワイアード誌1994年5月号に掲載された記事「これがテトリスをやっているときのあなたの脳だ」は、「テトリス・エフェクト」(あるいは持続的な視空間記憶効果の現代版)という言葉を生み出しただけでなく、「ファーマトロニック」の概念(テクノロジー中毒は中毒者の側だけの問題ではなく、技術そのものにも原因があるとする考え)を紹介したとして、高い評価を受けている。キオスクに並ぶような雑誌に掲載された、775語の記事にしては悪くない結果だろう。

 

ひとり歩きし始めるテトリスエフェクト

 

それ以来ゴールドスミスは、テクノロジーとメディアをテーマに活動をつづけたものの、テクノロジーと認知とがどのように関係するのかについて理解しようとする歴史において、自分が重要な役割を演じていたとは考えてもみなかった。しかし数年前、そのことを意識させる出来事があった。サンフランシスコの雑貨店でレジの列に並んでいたとき、店員の女性が達人的な正確さで商品を紙袋に詰めこんでいる光景が目に入ってきた。ふと彼は、その作業をどのくらい意識的に行なっているのか、また寝ているときや通りを歩いているときにも、品物がぴったり合わさる光景が目に浮かばないかと彼女に尋ねた。

 

するとその女性は、こう答えたのである―「まさか、こんな仕事でテトリス・エフェクトにかかったりなんかしませんよ」。

 

ゴールドスミスは仰天した。自分が1994年につくり出した言葉を、20年後に他人から聞かされるとは思ってもみなかったのである。しかも科学者や、ゲーム業界の関係者からではなく、サンフランシスコのレジ係の女性から。

 

「テトリス・エフェクトだって? どこでその言葉を知ったんだい?」と彼は尋ねた。
「それなら、大学で習いましたよ」というのが彼女の答えだった。
「大学で習ったって、どういうことだい? その言葉をつくったのは私だと思っていたのだけれど」。ゴールドスミスは家に戻ると、グーグルで「テトリス・エフェクト」と検索してみた。ビデオゲームやテクノロジー、そして長期間それに触れるユーザーへの影響について調べている人々は、テトリス・エフェクトという言葉を何年も使ってきたのだが、それが一般にも浸透していて、(ウィキペディアやニューヨーカー誌などさまざまな媒体で)自分がその名づけ親として認識されていることに、そのときはじめてゴールドスミスは気づいたのだった。

 

人間の認知力や、テクノロジーが人間におよぼす長期的な影響を研究する人々にとって、ゴールドスミスが名前を与えた概念は、使いやすく賞味期限の長いものだったのである。

 

書籍『テトリス・エフェクト』収録コラムより

テトリス・エフェクト